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いつ見ても波乱万丈に桑田真澄出演

父親の薫陶を受け、少年野球で活躍し、PL学園から誘いが来る。PLには入ったが野球部員ののレベルの高さに戸惑い、実力を発揮できず外野の球拾いの日々。その後報徳学園などで指導した清水コーチの引きで投手をすることに。
人の倍は練習をさせられたという、その甲斐あって夏の高校野球、地区大会で活躍し、甲子園へ、そしてあの池田高校相手に好投し、優勝投手となる。
1985年のドラフト、桑田自信は早稲田進学を考えていたが、巨人に一位指名され、困惑する。しかし元々将来は巨人入団を考えていた桑田は入団することになるがこのことで、巨人に指名されなかった無二の親友清原との軋轢が生じる。その後数年かは距離があったそうだ。
入団し、桑田さんは槇原さんや斉藤さんと三本柱を形成し、巨人の投手陣は黄金期に入る。
しかし90年に身近な人から暴露本を出され、当番日漏洩疑惑などが取りざたされる。真実ではなかったが、桑田は周囲の疑惑の目に悩み自殺まで考えたが、思いとどまったという。
しかしそのとき財産管理を桑田によれば信頼できる人に財産管理を任せていたが、その人が不動産投機などへ投資し、バブルの崩壊などで借金17億を背負うことになってしまう(現在は完済したそうだ)。
その後結婚し、1994年には胴上げ投手となる。
翌年、公式戦中相手バッターのバントが小フライとなり追いかけた桑田さんは右ひじの靭帯を断裂する重傷を負う。渡米しあのジョーブ博士に手術を受け97年復帰する。この年10勝。翌年には20勝をあげるが、その後球威の衰えが目立ち思うような成績が上げられず、先発以外の中継ぎ、押さえも経験する。
2002年引退を考えていた桑田さんは原監督に誘われ現役継続を決意する。この年際優勝防御率を記録する。
しかし翌年から又成績は低迷するようになり、2006年、ブログで引退を表明する。
その後メジャーリーグに挑戦する意思を表明。これは息子さんのアドバイスから決意したという。
翌年、メジャーのパイレーツのキャンプに招待される。しかしブルージェイズとのオープン戦中に、三塁ベースカバーに入る時に審判と衝突し右足首の靭帯断裂という重症を負う。傷が癒えメジャー公式戦に登板できたのは6月だった、主に敗戦処理で登板するが、評価を受け中継ぎに昇格。しかし球威の衰えは隠せず8月に戦力外通告を受ける。
翌年再びパイレーツとマイナー契約を結びキャンプに参加したがメジャー昇格の機会が得られず3月に現役引退を表明した。
現在は、友人である清原の怪我が癒えたときのバッティング投手を務めるべく投球練習に励んでいるという・・・。