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太田雄貴〜協調性よりエゴ

フェンシングの日本代表、太田雄貴は昨年世界選手権で団体、個人戦ともに不振。沈む気持ちにはならなかった。「完全にスイッチを入れ直してロンドンモードになった」
大会前には率先してきたまとめ役を買って出ていた。結束が固まるはずだったが結果は出なかった。
(大会の)2カ月前にろっ骨を折った影響もあって苦戦は想定していた。問題は変わりに台頭する選手がいなかったことだ。結局第一人者が引っ張らなければチームに勢いがつかない。
「傷のなめ合い的な『一緒に頑張ろうぜ』ではだめだ」と気付いた。

直後の11月〜チームメートと群れることなく練習に打ち込んだ。もともと(子供のころから)人目を気にせず独自の練習法で成果を上げてきた。日本代表なってからも協会が招いたウクライナ人コーチの指導を一時は拒絶。不調に悩むと一転して教えを請い北京五輪で日本人初の銀メダルにつなげた。
少々わがままに思われても結果を残せは自分が輝き指導者が喜び競技団体が支援に力を入れる。「僕は自分のために頑張りたいし、僕を応援してくれる人たちのために頑張りたい」
ところが近年は「まず自分ありき」とばかりは言えない状況になってきた。北京後一躍フェンシング界の顔に祭り上げられ支援を申し出る企業が殺到。

周りの期待にこたえようとするあまりいつしか人のためを優先させていたのだろう。
最近太田は東日本大震災の復興支援についての考え方も見直した。発生直後は親善試合に取り組んだが、今は控えている・。
「本当は被災地へ行ってお手伝いしたい。でも目の前にやるべきことがある。ロンドンでメダルを取って喜びを分かち合うのが一番いいんじゃないかと思っている」
「人のため」にまず「自分が輝く」。理想の順序を思い出した太田に今迷いはない。
「ロンドンで金を取る」という目標に向かってもっとわがままに突っ走ればいい。
(以上中日新聞の記事を要約)

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なるほど。大変だな〜。フィギュアの真央さんとコーチの変更のことなども似たようなことがあるのかも。自分にとって最もいい方向を見つけることが成績のよさにつながりいい色のメダルを取ることが皆さんの元気づけにつながるという。選手はきついなー。

朝日新聞昭和史再訪より「年100日合宿、札幌に虹かけた」

昭和47年(1972年)2月6日日の丸飛行隊メダル独占

札幌市の中心部から車で20分の宮の森ジャンプ競技場、この日札幌オリンピックの70メートルジャンプ競技が行われ日本勢がメダルを独占した。笠谷幸夫(金)、金野昭次(銀)、青地清二(銅)。日本としては冬季では初めて。

日本での初の冬のオリンピック開催が決まった1966年。国を挙げての前例のない選手強化が行われてきたが、その前のグルノーブル五輪(68年)で日本勢は6位以内の入賞なしと振るわなかった。その時に2度目の五輪出場だった笠谷さんも70メートル級23位、90メートル級20位と振るわなかった。選手生活はそれで最後と思っていた。

ところが札幌五輪強化選手に選ばれた。

「合宿は(初めての)100日」だったそうだ。それまでは数日だったそうで。

「世界選手権で銀メダルを取った70年が選手としてはピークででしたが。(札幌)五輪までもったのは合宿のおかげでしょう」

地の利を生かすため準備も入念だった。本番3カ月前の前年11月から準備に入る。近郊から自衛隊のトラックで雪を運び宮の森の斜面に張り付けた。その年北半球は記録的な暖冬、日本人選手に(ジャンプ台を)早くから飛ばせ。ヨーロッパ勢に差をつける作戦だった。

五輪のために新設した(宮の森の)台の構造も日本に有利だったそうだ。助走路の斜面の角度は30度で、世界で一般的な35度に比べて平べったい。70年秋の完成から練習を積んだ日本選手に対し、外人選手は1年前のプレ五輪が初体験。外人選手は慣れなかったのでは。

五輪後北海道内にはジャンプ少年団が続々と誕生し80年代には20チーム近くを超えた。現在は少子化のため半減したようだ。